六藤椰子〃の記(しるし)

思ったこと、考えたこと、まとめてみました

不登校

 

僕は不登校になった事がある。

もし一歩間違えていたらサイコパスとなっていたに違いないだろう、とつくづく思う。

 

家庭と学校の両方の事情で、我慢し続けた僕は、理性と感情が崩壊してしまっていた。

友人にぶつかっただけで号泣したのだ。

何故、号泣してしまったのか、当時の僕には分からなかった。

新しい学校生活、友人が出来るか不安に思ったその直後の出来事だった。

 

学校に行かなくなり、何かがきっかけで、事務職員の方と出会った。

理由などは一切覚えていない。記憶にないのだ。

ただ、少し不登校になって、教室の隣にある女子更衣室として扱われていた教室に通うようになって、毎日そこから新聞を書いて発行していた…と言う事だけ。

 

不登校は1日3分の働きかけで99%解決する

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勉強を教わる事もなく、毎日そこで過ごし、下校時間ぐらいには帰宅する。

教室だけが嫌になっていた。廊下を渡る友人達に新聞渡すのは苦ではなかった。

 

そこで、いつしか事務職員の方々にお世話になるようになる。

パソコンがあったその部屋には、自宅にもパソコンがあったので、ソリティアなどをしてよく遊んでいた記憶がある。そしていつしか、校長先生直々にお世話になる事となり、一緒に散歩に行ったりはした。…が、勉強は相変わらず教わらないまま過ごした。

 

 

中学生の頃、教室とは別に、使われていない空いた教室でお世話になった。

勉強を教わる事もない。他の生徒達から隔離された場所。当然、放送もその教室には通ってる訳もなく、聞こえてくる訳もない。孤独。

相談役の教師がいたけど、これといって特に何かをしてくる訳でもない。

 

学校に通うのをその時に辞めた。

自宅で家族用のパソコンの毎日。1日中やっていた。引きこもり時代である。

 

しかし物覚えは良い方で、キーボードの打ち方、HTMLタグ、構造、などは独学で簡単に覚えていった。

 

両親はこれと言って何か言う訳でもなく、夜○時までパソコンと言う時間を決めていただけ。勉強は教わっていない。

 

もし、当時、勉強を大人の誰からか教わっていたなら、僕の人生は今よりも少し変わっていたかもしれない。

オネショは思春期まで続いていた。精神が不安定になっていた。しかし親は基本的に放任主義、他人は他人主義なので、今でも僕は他人に心から信頼すると言う事は本能的に無くなっている。と言うか、到底出来ない。

 

ある日、フリースクールの教師がきた。親は弟の為だけに呼んでいた。

自分自身には何も関係なかった。しかし、人生の分岐点なのであろう。しかし、それはまた別のお話し。かといって、勉強は結局教わらないままだった。

 

小中高・不登校生の居場所探し 2018-2019年版 (全国フリースクールガイド)

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やりたい事が見つからなかった。

褒めてもらった過去がない僕は、ありとあらゆる専門学校などに行ったりもしたが、全て中途半端に辞めた。音楽の所にも通ったが、いわゆる小さい頃から楽器演奏している人達との差があった。レベルが違い過ぎた。

 

二十代前半、若白髪も生えた。銀髪も生えた。両親は気づけるハズもなかった。

僕は物心ついた頃から「我慢する」と言う癖があった。

感情そのものを我慢出来てしまう、思った事を我慢してしまう、考えた事を我慢してしまう。いわば僕の人生は「我慢」から形成されていたと言っても過言ではないほどだ。

 

 

もし仮に人生に正解、不正解があるとしたら、僕は間違いなく「不正解」の方であり、正義か悪と問われたら、間違いなく「悪」の一種なのであろう。