小学生の頃は同級生、友人にはいろんなタイプがいた事を、ふと思い出した。
ドミニカが故郷で、俗に言う黒人で、うちの近くのアパートに住んでいた。
他の同級生は近寄らなかったが、僕は大して気にしなかった。
まだまだ経験の浅い僕にはどう接するかよりも自宅に誘われた時の、文化の触れ方には正直戸惑っていたが、遊んでた記憶がある。
吃音に似たような症状の友人関係もあった。
相手の喋り方は気にした事がない。そういえば昔から僕と言う人は、友人相手には何も期待せず、友人は友人で、それ以上でもそれ以下でも無かった。
ゲイの友人も、男性ホルモン多めの女友人(眉毛が太く、声も低めで格闘ゲームを一緒に遊んだ事もある)もいた。双子姉妹の友人もいたし、背が僕よりも小さい友人もいたし、一旦挙げたらキリがないぐらいに小学生時代の友人は本当に多種多様の個性を持つ友人達だった。
ただ、友人だった。しかし経験が浅い僕にはそれら友人は、友人にしか過ぎなかった。
恋心抱く事もなく、一緒にマンガ読んだりゲームで遊んだりするだけの仲だ。コミュニケーションはゲームでこそ、語り合える素晴らしいものだと痛感してる。
現在でも中国に住むフレンドとゲームで遊んでいる。ゲームとは偉大だ。海外の人達をも虜にさせ、尚かつ今の時代では世界中のプレイヤー達と交流出来る。
友人相手と喧嘩した事が生まれてから一度もない。不思議な縁である。
多種多様と言うべきか。そんな数多の友人達の事を知って会って、遊んでた。
それで今だからこそ思える疑問と言うのが、差別なんてどこから生まれたのだろうと言う事だ。
大人達の先入観が、大人達が人種差別する為に、あたかも当たり前のように子ども達に洗脳させ、植え付けてるだけではないのだろうか?