僕は生まれてこの方、『数回しか褒められた事』しかない…と思う。
予め断っておくが、これは個人差によるものだろうし、人に依って違うかもしれない。
日本人と言うものは、『他人を褒める事が苦手』なのではないか、と思うのだ。
ビデオカメラに映し出された、赤ん坊の頃の僕がいる。
今にも泣きそうになりながらも必死になって親、つまりカメラの方へ向かってくる。
そこまでは良い。赤ん坊の頃を記録として残しておきたいのはわかる。
しかし、問題はここだ。掛け声はおろか、辿り着いても褒め言葉ですら聞こえない。
結構昔見たビデオカメラなので、記憶違いかもしれないが、そんな感じだった。
僕は昔から、キリスト教徒さんの家でお世話になったり、学校で賞をもらったり、ハガキで送ったイラストが雑誌に掲載されたりしても、決して、その事を関心になって聞いてくれる家庭ではなかった。
キリスト教については、ノートに自分がイラストを描いて聖書についての説明文を書かされたりするのだが、家に帰宅しても、母親は弟の育児で忙しいのか、聞いてくるような事はなかった、と思う。
小学生の頃に、勉強熱心になって、本来やるべきではないページまでやってしまった事がある。
教師から教科書を提出した際に「やり過ぎじゃない?』などと指摘され、『しまった』と恥ずかしく思い、それ以降勉強が苦手になってしまった。
国語の音読にて演技派と称賛され、小さな賞を貰った事もあるが、家に帰宅しても無反応であった。
掲載されたイラストに限っては、夜遅くに母親が『お父さんに見せたら』とわざわざ起こしに来たので、僕は心の中で『見せたところでどうせ無駄だろう』と思い、雑誌を見せるだけ見せて寝に戻った。
後日、父親が何かを言ってくるような事はなく、かといって母親は褒めるような事はなかったと思う。
中学中退し、専門学校に通うようにもなった。
毎日母親は弟を引き連れて迎えにはくるが、学校の様子を聞いたりするような事もなく、かといって自分自身も話すと言う事自体が億劫になっていた。
やがてその専門学校も中退するようにもなる。
何故続けなかったのかと今になって思い返してみると、
客観的に見て、頑張ると言う事ほど無駄な行動はないだろうと言う心理があったからではないか、と思えるようになった。
唯一記憶に残っている『褒められた事』と言うのは、島香師匠と出会った時だ。
時はすでに遅かったかもしれない。人間不信に陥っていた自分自身は、己を変えると言う事に頭が精一杯で、周りが見えていなかったかもしれない。
僕は中学の頃まで『寝小便』をしていた。単刀直入に精神が不安定だったからだ。
しかし、何故不安定だったのかは当時の僕は知らない。
無意識のうちに、日々『我慢』との戦いがあり、弟もいたので、猶更ストレスが放出出来る場所もなく、いつの間にか思春期以降には自閉症のような鬱にかかってしまっていたのだ。
唯一心を開放出来るのは友人との会話だった。
ある事ない事を言い合える。かといって本音は言わない。会話してるだけで、その時だけストレス開放されたような感じがしていた。
女子達ともよく話していた。けれども、当時は一切信頼はしていなかった。
好きな漫画も、好きな事も、全て偽っていた。本当は○○好きだけど…と言う事は常にあった。けれども、本音を漏らす事はなかったので、もしかしたらストレスに対する開放出来る方法が『会話』そのものだったかもしれない。
しかし、年が進むにつれて、会話すら苦手になっていった。不思議なものである。
神がもしいるとするならば、僕は信じない事にしよう。そう心にも誓った。
悪魔を信じた方がまだマシに思えてくるからだ。
最近では、どちらでもなくなった。いや、正確にはどうでも良くなった。
褒め言葉は未だに苦手かと言えば、どちらでもない。最早どうでも良いのだ。
年を老いる毎に、どんどん世の中がどうでも良くなっていく。
世界が破滅しようと、壊滅しようと、滅亡しようと、僕にはどうでも良い事だ。
もし人生をやり直せるとしたら…同じ人生は良いかもしれないが、その反面またあの人生を歩むのは嫌だし疲れると言う気持ちさえある。
僕は他人を褒めると言う事が、得意か、否か…。おそらく、苦手な分類となるだろうと思う。